横浜地方裁判所 昭和46年(ワ)402号 判決 1973年9月25日
原告
斎藤正見
被告
神奈川県
ほか一名
主文
被告らは、各自、原告に対し四〇万円と、これに対する昭和四六年三月三一日以降完済に至るまで、年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担、他の一を原告らの負担とする。
この判決は、原告勝訴の部分にかぎり、仮に執行することができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 原告
「被告らは連帯して原告に対し一〇一万円ならびにこれに対する昭和四六年三月三一日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの連帯負担とする。この判決は仮に執行することができる。」との判決。
二 被告ら
「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 事故の発生
昭和四五年五月一一日午後二時二五分頃、横浜市神奈川区大口通三番地ヌマヤ洋品店前路上において、原告がその路上を同洋品店の反対側から同洋品店に向け横断中、被告前清三は、原告の通行方向右側から自動二輪車神奈川区一八二(九〇CC)を運転進行してきて、車両を原告に接触させ、原告を転倒させた。
2 受傷
この事故により原告は後頭部挫傷、右肘挫創の傷害をうけた。
3 被告らの責任
イ 被告前は、前方をよく注視し、徐行または一時停止をした上、原告の横断終了をまつて進行すべき義務があるのに、前方をよく注視せず、徐行も一時停止もせずに漫然進行を継続した。そのため接触事故を起したのであつて、事故は被告前の右過失に起因する。
ロ 被告前は神奈川県警察官であつて、前記自動二輪車は神奈川県がその業務のために運行の用に供しているものである。
ハ そこで被告前は民法第七〇九条、被告神奈川県は自動車損害賠償保障法三条により、ともに本件事故によつて生じた損害を賠償する責任がある。
4 示談の成立
本件事故については、昭和四五年五月二六日、原告と被告前との間で、治療費三万四五八〇円、めがね代一万四〇〇〇円、慰藉料二万円、合計六万八五八〇円を同被告が原告に支払う約束で示談が成立した。
5 後遺症
ところが同年七月に至り、原告は聴力及び眼に異常が顕著になり、関東労災病院で診断治療をうけた結果、同年一一月一三日、左内耳性軽度の聴力障害、眼振(平衡機能障害)、視力調節衰弱、視標追従眼球運動障害の症状にあることが判明した。これらの受傷が本件事故と因果関係のあることは明白である。そして聴力障害と眼振は自動車損害賠償保障法施行令別表後遺障害等級一二級、視力調節衰弱、視標追従眼球運動障害は同一一級の一にそれぞれ該当する旨認定された。さればこれを併合して同令二条により等級一〇級が認定等級となる。右等級の保険金額は一〇一万円である。
6 示談の効力
示談当時にあつては、当事者双方はこの後遺症発生につき全く予測しておらず、したがつて後遺症に基く損害は全く考慮されていなかつた。換言すれば、示談の効力は後遺症に基く損害には及ばないのである。
7 慰藉料
この後遺症により原告は精神上の苦痛をなめたが、その苦痛を慰藉すべき金員としては、自動車損害賠償責任保険の保険金額をも斟酌し、一〇一万円をもつて相当とする。
8 結論
よつて被告らに対し、慰藉料一〇一万円と、これに対する訴状送達の日の翌日である昭和四六年三月三一日から完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1は認める。
2 請求原因2は認める。
3 請求原因3イは争う。同ロは被告前の身分の点を認め、その余は争う。同ハは争う。
4 請求原因4は認める。
5 請求原因5、6、7は争う。
三 抗弁
前記示談に際し、当事者双方は原告における今後の症状の推移如何に拘らず、双方とも一切異議を述べないことを確認した。即ち原告は将来における損害賠償請求権の行使を放棄した。これにより原告の本訴請求権は消滅した。
四 被告らの積極的主張
(一) 現場付近の地勢
現場は、大口駅から第二京浜国道に至る歩車道の別のある舗装車道であつて、商店街の中心地である。車道の幅員は約五・三米である。事故地点手前一〇〇米の区間の見通しは良好である。現場付近は、大口駅から第二京浜国道に向かい一方交通で、左側は車両の駐車区域をなし、当時数台の車両が連続して駐車していたため、車道の空地幅は三米弱に過ぎなかつた。当時は降雨中であり、または付近制限速度は毎時四〇キロであつた。
(二) 原告の過失
被告前は、大口方面から第二京浜国道方面に進んで来て、現場付近では時速約一〇キロで車道の右側を進行していたが、その進路左前方約八米の地点に、左側駐車車両の間から洋傘をさし、左から右斜に横断する原告を認めた。被告前は時速を七ないし八キロで減速し、原告の動静を注視したところ、原告は道路中央付近で立止まつたので、被告前は、自己の通過を待避したものと信じて進行した。ところが原告は、何らの合図もせず再び急ぎ足で横断を開始したため、被告前は急停車したが、間に合わなかつた。このように一旦立ち止まりながら、再び歩き出す際に被告前に合図をしなかつた点に、原告の過失がある。
(三) 過失相殺
右のとおり、本件事故発生につき、原告にも過失があるから、損害額の算定にあたつては、金額を減少するように考慮されるべきである。
(四) 後遺症と事故との無関係
原告主張の後遺症は、本件事故に因つて生じたものではない。
(イ) 事故当時原告は直ちに鈴木病院で診察をうけ、その受傷の後頭部挫傷、右肘挫創は一週間くらいで全治した。
(ロ) 原告は幼少の頃から視力薄弱(近視性乱視)、かつてんかんの持病があり、症状安定剤を本件事故当時も服用中であつた。
(ハ) 原告は、本件事故後の昭和四五年七月二六日午後一時頃、横浜市神奈川区大口通一〇番地先交差点を、第二京浜国道から大口駅に向かい自転車で進行中、右側道路から進行中の訴外増田正二運転の乗用車と接触転倒、口唇、左肘に全治一週間の挫傷を受けた。
(ニ) かような次第で、原告が後遺症と主張する症状は、右(ロ)(ハ)の競合から発生したものである。
五 被告の積極的主張に対する原告の反対主張
1 原告が、てんかんに以前かかつていたことは認める。しかし、昭和四三年四月に発作が起きたのを最後に、その後は発作が起らない。本件事故当時は全治していた。
2 (ハ)の事故は認める。ただし原告は転倒しなかつた。片肘と片足を路面につつぱつて、そのからだを支えたのである。
3 右1と2を総合し、殊に前記(ハ)の事故における傷害が、頭部に発生しなかつたことを考慮するならば、原告主張の後遺症は、被告主張の原因に因り生じたものでないことが明瞭であろう。
第三証拠〔略〕
理由
一 請求原因1、2の事実は当事者間に争いがない。
二 請求原因3の事実につき、争いがあるので、審案する。
三 〔証拠略〕を総合すれば、第二、四(一)の事実、ならびに本件事故直前被告前は、大口方面から時速約一〇キロで現場付近にさしかかつたところ、前方に傘をさして車道を横断している原告の姿を認め、時速八キロに減速したが、原告が一旦立止まつたので自車の通過を待つてくれるものと思いこみ、そのまま進行したため、再び歩き出した原告に自車を衝突させてしまつたことを認め得る。
四 右の場合に、自動車運転手たる被告前としては、原告の横断終了を待つため、徐行ないし一時停止をすべき義務があるものと認められる。ところが同被告は前方の原告の挙動をよく観察しなかつた結果、原告において同被告の通過を待つかのように誤信し、単に若干徐行しただけで、一時停止をもせず、つまり原告の横断終了を待つことなく漫然進行を継続したのである。かように、前方注視及び一時停止の義務に違反した点に被告前の過失が存する。また請求原因3ロの事実は、被告前が神奈川県警察官であることは当事者間に争いがなく、〔証拠略〕によれば、前記自動二輪車は神奈川県がその業務のため進行の用に供するものであることが認められる。であるから請求原因3ハの原告の主張は正当である。
五 ところで〔証拠略〕を総合すれば、請求原因5の事実が認められる。ただし「これらの受傷が本件事故と因果関係のあることは明白である」との点を除く。
六 原告は五の受傷即ち請求原因5の受傷が本件事故と因果関係のあることを主張し、この受傷に基く慰藉料を本訴で請求する。よつて右受傷が本件事故と因果関係があるかどうかの点はしばらくおき、右受傷に基く慰藉料の請求権は、既に本件事故の損害賠償に関する示談の成立により消滅したかどうかを調べてみることとする。
本件事故に関し、請求原因4のとおりの示談が成立したことは当事者間に争いがない。そして〔証拠略〕によれば、その際作成された示談書には、この事故に関しては円満示談解決し、今後の推移如何に拘らず双方共本件に関しては一切異議等を申立てないことを確約した旨の記載のあることが認められるから、事後にいわゆる後遺症が発生した場合でも、後遺症の損害についての請求権を、一切原告が放棄したかのように解されないではない。しかしこの示談は事故後一五日という短時日の間になされていること、ならびに権利放棄条項が記載された示談書は、警察署長宛てのものであつて、これに不動文字で印刷されたものであることも、甲二号証により明瞭であつて、これらの事実に〔証拠略〕を総合すれば、被告前が負担した原告の治療費三万四五八〇円は、五月一一日から二三日までの分であり、なお交通費やクリーニング代を加えても合計七万五〇八〇円にすぎないこと、加えて、右権利放棄条項に関しては、殊に原・被告間で、将来不測の損害が発生した場合にも請求権は放棄する旨を協議したわけではないことが認められる。これらの事実からすると、本件示談は、その締結当時、原・被告とも原告に将来後遺症が発生するであろうとは予測せず、したがつてその点については何ら配慮することなく、当時両者に明らかであつた外傷その他の損害を基礎として、締結したものと推認できる。つまり、原告が放棄した請求権は、右のような事実関係のもとにおける損害についてのみであつて、将来の予測されない損害についてまで請求権を放棄したものとは解し難い。それゆえに、原告は右示談成立後新たに発生した傷害に基く損害については、それが本件事故と相当因果関係の範囲内にある限り独立にこれを請求することは許される。
七 進んで、請求原因5の症状が本件事故に起因するものであるか否かにつき検討する。
(イ) 〔証拠略〕を総合すれば、本件事故に因る請求原因2の傷害は、原告本人が事故日に受診を受けた鈴木医師の診断では全治までに約一週間を要する傷害ということであつたが、実際は昭和四五年七月六日までかかり、原告においてその間三七回ぐらいも同病院に通院受診した始末であつたところ、治療が長引いたのは右2の後頭部挫傷が脳に損傷を与えたためであるとみられ、実際、同年五月一九日頃既に左前額殊に眼の周囲に疼痛があつたり、左眼がはれたりしたため、同医師の紹介により、同年七月三日頃から昭和四六年五月一二日頃まで、関東労災病院において、脳神経外科、眼科、耳鼻科の各医師から診断を受け、その診断を総合した結果、原告における請求原因5の傷害症状はすべて頭部外傷に起因すると考えて差支えないとされたのであつたが、なお補足すれば、眼の調節衰弱は年令に由来するものもあるが、しかし、この点を考慮に入れてもなお頭部外傷によると考えることができ、指標追従眼球運動障害は頭の外傷だけに起因する特別な症状ではないけれども、頭を打つた場合でもそういう所見が見られる場合があり、内耳性聴力障害は外傷によると考えても矛盾せず、眼振も頭部外傷のときによく現われることの事実を認めることができる。
(ロ) ところで、原告がてんかんに以前かかつていたことは当事者間に争いがなく、原告が本件事故当時てんかん症状安定剤を服用中であつたことは、原告の明らかに争わないところであるけれども、〔証拠略〕を総合すれば、右てんかんは幼時からのことではあるが、治療をずつと続けた結果、長ずるにつれて快方に進み、原告の三〇代の頃即ち昭和三四年頃以降、発作が起るのは一か月に一回程度となり、昭和四一年一一月頃以降それが三か月か四か月に一回程度となり、本件事故以前約二か年の間は発作が起きたことがなかつた事実、しかも、てんかん症状で耳や目に影響が現われるようなことは通常はなく、前述の原告の諸症状とてんかんの結びつきは、直接にはないことを認め得る。そして、原告が現在服薬を続けていることと右諸症状との因果関係を肯定できる資料はなく、かつ前掲の各証拠によれば、原告には若い時から近視と乱視があつたこと、ならびに、事故当時原告が視力調節衰弱のそろそろ始まる年令たる四二才前後であつたことは認められるが、これらの視力薄弱や年令の点も、前記症状と特に関係ありと疑わせる資料がない。
(ハ) 次に第二、四(四)(ハ)の事実は転倒の点を除き当事者間に争いはなく、〔証拠略〕によれば、原告はよろよろとよろめき、地面についた左ひじで自己のからだを支えた事実即ち頭を打つてはいない事実を推認し得る。〔証拠略〕を総合すると、この事故によると右受傷は、請求原因5の症状に対し、影響を及ぼしたとは考えられない。また原告がその眼の周囲に疼痛を訴えたり、左眼がはれ始めたのは、この事故よりも前の時点であることはさきに認定したとおりであつて、このこともまたこの事故に因る前記受傷が請求原因5の症状に影響を及ぼしたとは考えられない一つの資料である。
(ニ) 以上の(イ)ないし(ハ)の事実を総合すると、請求原因5の症状即ち後遺症は、本件事故に因る後頭部外傷に起因するものと認定することができる。なお乙二号証の記載も、証人山崎篤巳の証言と合わせ考えると、右の認定を妨げるものではなく、ほかに右認定をくつがえすに足る証拠はない。
八 上来の説示のとおりであるので、被告らは本件事故によつて原告に与えた前記後遺症に基き原告をして味わわしめた精神的苦痛を金員をもつて慰藉すべき義務を負う。
九 いま、慰藉料の数額につき審案するに、請求原因5の症状は、〔証拠略〕によると、昭和四五年一一月一三日頃既に症状一応固定したことが認められるのみならず、〔証拠略〕に徴すると、現在は殆ど全治した状況にあることが肯認し得られるので、これらの事実に右受傷の部位、受傷から症状固定に至るまでの期間、治療状況など記録に現われた諸般の事情をあわせ考えると、この受傷により原告が体験した精神的苦痛を慰藉すべき金員としては四〇万円をもつて相当とする。
一〇 被告は第二、四、(三)(二)のとおり、過失相殺を主張する。しかし道路を横断中の原告が、一旦立ちどまり、再び横断を開始しようとして歩き出した際、被告が原告の横断が終了するまで徐行ないし一時停止すべき義務のあることは既に説示したとおりであつて、かようなとき、むしろ被告においてこそ原告に向かい「素早く歩いて下さい」との趣旨の合図を何らかの挙動によつて伝えるのがこのましいのである。これと反対に原告から被告に対し、一時停止を求める趣旨、その他何らかの趣旨の合図をすべき義務を原告が負うていると解するのは正当でない。かような義務の存在を前提とする被告の主張は失当である。記録に徴するも本件事故発生につき原告にも過失があることを疑わしめる点はない。
一一 以上のとおりであるから被告らは各自原告に対し後遺症に基く慰藉料として四〇万円ならびにこれに対する訴状送達の日の翌日たること記録上明らかな昭和四六年三月三一日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。
一二 本訴請求は右を求める限度において正当であるからこれを認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九二条本文、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 高橋雄一 石藤太郎 島田充子)